熊谷辰治郎(一八九三〜一九八二)
日本の青年団運動の萌芽期から戦前、戦時、戦後を貫き青年団運動の上に身をおいた軌跡は、稀有のものでしょう。熊谷は明治二十六年十一月一日、岩手県気仙郡(現陸前高田市)に生まれました。
大正三年三月、岩手師範学校第一部卒業。
大正年同月、同県上有住尋常高等小学校訓導。
大正五年三月、広田尋常高等小学校訓導。
大正十年三月、浦浜尋常高等小学校長。
大正十一年三月、東京社会教育研究所(二ヵ年課程)に入所。
大正十一年六月、財団法人日本青年館調査嘱託。
大正十三年十二月、日本青年館主事。
昭和七年九月、大日本連合青年団編集部長。
昭和八年七月、「日本青年団発達年表」を発表。
昭和八年七月、「青年団の経営」を発刊。
昭和十三年九月、田子一民と共に、大きな目的を秘めて中華民国の旅に上ります。
昭和年十二月、大日本連合青年団、日本青年館総務部長。
昭和十四年三月、国民精神総動員委員会幹事に任ぜられます。
昭和十五年十二月、大日本青少年団の創立幹事を命ぜられます。
昭和十六年一月、大日本青少年団の総務部長兼企画部長となり日本青年館総務部長を兼ねます。
昭和十六年八月、大日本青少年団、青少年教育研究所副所長。
昭和十六年九月、大政翼賛会の調査委員となります。
昭和十七年八月、「大日本青年団史」編集発刊。
昭和十七年九月、「大日本青少年の性格と指導」を発刊。
昭和十八年十一月、大日本青少年団の実践局長。
昭和十九年八月、大東亜青少年団協力会の幹事長を委嘱せられ中華民国へ視察出張。
昭和二十年六月、大日本青少年団の解散に伴い自然退職となります。
昭和二十一年四月、日本青年館評議員。二十三年十一月、公職追放。
昭和二十七年十一月、追放解除。
昭和二十八年一月、日本4H協会常任理事。
昭和二十八年一月、日本青年連盟常任理事。
昭和二十八年七月、文部省社会教育審議会青少年分科審議会委員。
昭和三十年七月、文部省社会教育審議会委員。
昭和三十四年九月、国立中央青年の家運営委員。
昭和年十一月、社会教育功労者として文部大臣より表彰されます。
昭和三十五年十二月、青少年指導育成の功労者として内閣総理大臣より表彰されます。
昭和三十六年十一月、青年団運動の功労者として藍綬褒章を受けました。
青年運動へ努力をし、日本青年館を生涯離れることなく初一念を貫きました。いわゆる温故知新の研鑽を積みました。師範教育による教育理念を使い、編集技能があり文筆が立ち、雄弁家でした。社会教育の上に上記の三条件は何に増して強みでした。また郷里の先輩田子一民の引き立て庇護がありました。いうまでもなく田子は、日本青年館の創設理事の一人で青年団、青年館に隠然たる勢力を持っていました。熊谷もその時々の勢力変転に遭遇してはいますが、はじき出されることなく終始できたのは、無論彼の忍耐にもよるが田子の庇護が大きかったと思われます。思想的には本質的にリベラリストであり、常に体制派に身をおきました。
昭和三十六年十一月三日、彼の藍綬褒章受章祝賀会が日本青年館で催されました。参会者三百余名、会場は立錐の余地もない盛況でした。おのおの彼の功績を述べ、日本の青年団運動の至宝であると讃えました。彼は謝辞に立って、青年団運動へ灯した火を燃やし続けようと述べるや熱気をはらみ拍手なり止まず、あたかも熊谷の業績の全てを凝縮した観がありました。
晩年も青年団運動に対する情熱は一向に衰えることなく、主宰する日本青年連盟の孤塁を守り、孤高の青年運動家熊谷は、昭和五十七年二月八日、日本の青年運動は、とつぶやきながら静かに息を引きとったといいます。時に八十九歳でした。